2015年
6月
24日
水
去る6月6日、7日、対話工房の活動のひとつして、女川町の出島(いずしま)でキャンプを行い、地元の方々もご一緒に現地でのひとときを過ごしてきました。
出島は本州側にある女川町中心部から見て北東にあり、女川港から離島航路就航船で行ける島です。朝の第1便で船に乗り、出島港で下船。港近い場所にベースキャンプを設けました。
いつも島の窓口となっていただいている方と、京都市立芸術大学学生グループのtrams(トラム)メンバーとの数年来の交流の中で、今回はご自宅があったこの敷地にひょうたん棚を設置させていただくことになりました。高台移転により今は無人の地区ですが、小さくとも憩える場をつくろうという取り組みです。
対話工房メンバー、小山田徹の指揮のもと、島の方から提供していただいた竹を素材に、小屋の周りからも材料も調達して、無事に棚を作り上げました。足元の花壇には持ってきた苗と種を植え、そのできばえは島の方々にも喜んで頂きました。ひょうたんの成長がとても楽しみです。
午後からは夕食の食材調達です。山から薪を集め火を焚き、汲んだ海水を煮詰めて塩づくり。敷地周辺の野草(セイタカアワダチソウ、ヨモギ、クズなど)の新芽を採取。これで天ぷらの材料と調味料が揃いました。
ひょうたん棚づくりを終えた夜、出島地区と寺間地区の方をお招きして、もう一つの活動である「海辺の記憶マッピング」の寄り合いを開きました。
これは公式な地図にはない、自然と共に生きる人びとの記憶のなかにある磯、浜、岩礁、岬など海辺の地形に宿る「呼称」を掘り起こし、マッピングしていくものです。2013年から続く「女川国物語」プロジェクトの一環として、民俗学的アプローチを絡ませながら海と共に生きる女川びとの物語の採集や、精神的な風景を描き共有し、地域の人びとが自らの地域に目を向ける手がかりをつくるために活動しています。
古くから漁師は、地形や岩や木を目印にした「山立て」という航海法で位置を測って漁を行なってきました。微細な地形につけられた名前には、先祖から引き継がれてきた生きていく為の術や、歴史、逸話、信仰や願いなどの物語が宿っています。
実際お聞きすると、同じ磯でも地区によって発音やあてる漢字が異なっていたり、先祖がそこで遭難した為にその家独自の名前がつけられている様です。また時には「いまここで名前つけたらいいんでねぇの」となったり、海を大らかに分かち合う水辺の文化と、安全な航海や漁の出来不出来に直結する道しるべとしてその呼称が今も生きていることを知りました。
最後に「やっぱり船にのってみねぇと。地図ではわかんねぇな。今度は船で島を一周しよう。」と誘っていただきました。
出島住宅の集会所に貼らせていただいた大きな地図に、今後は島の人びとが書き込んだり、地形の探索を続けるネイチャーガイド協会さんの情報を加えたりして少しずつ更新していく予定です。
重機の音が止まった刹那の鳥の声、新鮮な海の幸、緑豊かな山、満天の星、そして皆さんの温かなもてなし。島の方々の誇りとしている「宝の島」の魅力を存分に味わいました。
2015年
1月
26日
月
今回は「アサヒ・アート・フェスティバル(AAF)2014」のネットワークを通して「うみやまさんぽ」4 冬至キャンプにご参加頂いた、大島広子さん(舞台空間/衣裳デザイナー)によるレポートをご紹介します。主催側とはまた異なる視点で綴られた参加体験として、ご紹介させて頂きます。対話工房としても、今後の活動の参考になるものとしてありがたく拝読しました。
*同レポートはAAF2014活動報告書用に執筆されたものを、大島さんおよびAAFのご厚意により転載させて頂きました。関係各位に御礼申し上げます。
女川の自然と火と人 − 対話工房 「うみやまさんぽ」4 冬至キャンプに参加して
文=AAF東京校 大島広子
「うみやまさんぽ」4 冬至キャンプ
2014年12月21日、冬至の前日の朝、対話工房メンバーの海子揮一さんにお会いした。「うみやまさんぽ」4 冬至キャンプに参加するためだ。うみやまさんぽとは、女川ネイチャーガイド協会と対話工房のコラボレーション企画として、今回で4回目の開催となる。女川最高峰の石投山(いしなげさん)の山頂に登って、海の方向にある出島(いずしま)より上る冬至の日の出を見よう、というのが今回の目的。この対の企画として、半年前の夏至の日に「うみやまさんぽ」3夏至出島縄文キャンプは開催されている。それは出島の遺跡から、対岸の石投山に沈む夏至の日没を眺める、という今回とは真逆のもの。うみやまさんぽとは、出島の古代遺跡は、女川で暮らした縄文人にとっての巨大な暦(カレンダー)だったのではないか、という仮説を元に、実際に女川の自然を歩き、過去と現在、時と空間について思いを巡らせるための小さな冒険旅行である。
昼食においしい女川カレーを食べた後、いざ標高456mの石投山へ。参加者は7名。大人になってから、ハイキングにすら行ってない私は、臆病な部分の自分を励ましつつ、冬の山を登り始める。黄色やだいだい、茶色の木の葉で埋め尽くされた自然の絨毯が続く斜面。途中2度休憩して、2時間ほどで山頂へ到着する。早速ベースとなる大きなテントを設営し、山頂にある枯れ枝を集める。 たき火の準備だ。火を付ける。暖かい。火に手を向けて暖を取りながら、参加者はぽつ、ぽつと話始める。
キャンプに切り餅を持ってこなかったことを、少し後悔していること。なぜ3ヶ月前から女川に住むことになったか。女川では昔クジラが水揚げされていて、クジラの水揚げの際には、港からサイレンがなるので、サイレンが鳴る度、港から少し陸に入った解体工場へクジラをよく見に行ったこと。コーヒーを持ってくるのを忘れたこと。来年の3月には、女川駅まで電車が開通し、駅前には新しく桜並木が植樹されること。いのししの背骨の両脇の肉はとてもおいしいこと。近い未来は女川にいるが、その先はまだわからないこと。
大笑いしたり、切なくなったりと、大きく感情が揺れる話ではなく、ただそれぞれが頭に浮かんだ事を話す。まるで、みんな昔からの知り合いのようにリラックスした雰囲気で、たき火の暖かさと揺らぎに寄り添うような、穏やかな時間。だが、火に面して温かい体の前面とは逆に、背中には冷気が迫ってくる。 テントの外はマイナス6度。 何かを食べ続けないといられない。おだやかなおしゃべりの時間にも、自分の体の中は「生きる活動=燃焼」に必死だ。気がつくと火を起こしてから5時間、22時を回っていた。
たき火を消して、寝袋へ潜り込む。だが眠れない。まるで保冷剤の上に布団をしいて寝ているようだ。冷たさがゆっくりと背中に感じられる。考え事なのか、夢なのか。その意識の狭間をうろうろしながら、長く、暗い夜と共に朝日を待つ。闇の中には、獣の気配、なにかの足音、風の鳴き声、昔の記憶が混ざり合う。
気がつくと、海子さんが朝のたき火の準備をしてくれている。間もなく日の出らしい。始まりの小さな火ですら、とても暖かくて、大切に思える。テントの外に出ると、女川湾の辺りから、明るい光が雲の間から見える。全員でご来光を眺める。少しづつまぶしい光が海から空へと離れていく。
朝ご飯をすませ、大きなテントをたたむ。山頂にて記念撮影。その後すぐ、急斜面をおそるおそる降り、下山が始まる。背中の大きな荷物に振り回されて、私は何度も転げ落ちそうになる。地面から突き出す霜柱や、落ちていた緑色のかいこまゆが、太陽の光を浴びて鮮やかに輝く。激しく根元から折れた大きな杉の木をまたぎ、10時過ぎに登り口へ到着。そこで今回のうみやまさんぽは、おひらきとなった。無事戻って来れた。小さな冒険の終わりには、安堵と共に、子供の時に感じた純粋でなつかしい喜びが待っていた。
対話工房 女川でともす火(あかり)
女川町は、宮城県東部、自然豊かな牡鹿半島の根元に位置し、漁業が盛んな町である。市街地の大部分は、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波で壊滅的な被害を受けた。対話工房は、女川町をベースに、失われた「表現と対話の場」を人々の日常に取り戻すことを目標に活動している一般社団法人である。メンバーは、案内をしてくれた建築家の海子さんを始め、女川内外の様々な表現者が集まり、現在10名。メンバーの多くは、東京、京都、ドイツ、沖縄など、拠点が女川町以外にあり、メンバー全員が一同に集まったことは一度もないが、それは対話工房らしさ、と海子さんは笑顔で話す。メンバーは女川でのプロジェクトに参加して、そこから得た学びを、それぞれの拠点へ持ち帰り発信する。いわばサテライトとしての役割を担っているのだ。これまでにトークショーや女川の写真展などがメンバー主導の元、京都、沖縄、別府、海を渡りドイツで行われている。
女川の今を外に向かって発信する活動と平行し、女川町の地域社会において、人と人のつながりや対話を生む活動の核となっているのは、コミュニティカフェ「おちゃっこカフェ」の存在である。対話工房メンバーであり、女川町在住の岡裕彦さんがオーナーで、現在は女川町地域医療センター内の港が一望できる一角で営業している。このカフェは、岡さんが避難所で暮らしていた際、地域の人たちが集い、語らう時間と空間の必要性を切に感じ、対話工房のコミュニティカフェプロジェクトとして、女川に住む人との恊働により誕生した。
海子さんは、おちゃっこカフェで提供されているソフトクリームにまつわるオーナー岡さんの思いについて、話してくれた。ソフトクリームは、人と人がコミュニケーションを交わす際の呼び水になりうる。なぜなら、人はソフトクリームを食べる時、大人も子供も、地位や財産の有無も関係なく、人前でベロを突き出し、食べなければらなない。無作法で、無防備なポーズを強いる、甘く柔らかいソフトクリームの元で、人は、普段自分を囲っている垣根に少し隙間を作り、それが対話のきっかけを生めるのではないか。
このソフトクリームのように、 人と人の間に介在し、対話を生み出すきっかけになりうるもの。 こういったものを対話工房では「対話ツール」としてイベントで活用している。その中でも一番原始的で、多くの人を引きつけるツール、それはたき火だ。うみやまさんぽでも、私たち参加者の中心にあったたき火。たき火をプロジェクトの中心に据えている「女川常夜灯」というイベントが、対話工房と地域住民の協力により、毎年8月お盆の時期に開催されている。広場に集まった参加者によって、小さなたき火がたくさん焚かれ、その火を囲んで語らう時間を共有するという企画。 女川常夜灯の夜は、女川内外から様々な世代の人々が火を囲み、今と未来が語られ、震災の経験と昔の女川の姿が、若い世代に口承される時間が流れている。
そしてさかのぼり、東日本大震災が起きた2011年3月11日の女川でも、たき火は人と人の中心にあった。女川町在住のおにいさんから、震災当日の話を聞く事ができた。その日、彼の腰から下の部分は津波によって濡れた。それを乾かし、暖めてくれたのはたき火だった。近寄ると熱くて、遠ざかると寒い。そのいい案配の距離を見計らうことで、その日が終わったという。闇と不安の中、火はどれだけ女川にいた人の支えになっただろうか。
火をおこす事は、物を作る行為とは違って、見えない自然の力を火という形に代えて、それを一時借りているという行為とも言える。火を扱うことを覚えた我々の祖先は、文明を飛躍的に発展させることに成功し、一方で制御できない火は、様々な命を奪うこともある。私たちの都合から言うこのような二面性は、大地、水、空という自然界の物質にも共通する。女川町は恵まれた水産資源によって発展し、津波により、たくさんの命、もの、つながりが失われた。その女川町で、たき火という小さな自然の化身を手がかりに、人と人の新しいつながりを生む活動は、これからも、女川の自然の恵みと共に生きて行こうとする、女川町の人々を励まし、優しくあたためている。
今も昔も変わらず、 たき火を囲むという事とは、私たちは、大きな自然のほんの小さな一部を借りて、在る、という命の本質を受け入れるための儀式なのだと、改めて感じた女川町での2日間であった。
《執筆者プロフィール》
大島 広子(おおしま ひろこ)
フリーランスの舞台空間および衣裳デザイナー。こども、中高生向け演劇ワークショップのファシリテーターとしても活動。ベルリンで参加した「公共性とはなにか?」という演劇ワークショップをきっかけに、アートプロジェクトに関心を持つようになる。
2015年
1月
15日
木
ご報告遅くなりましたが、昨年11月に大分県別府市で開かれたトークセッションの様子をお伝えします。BEPPU PROJECT事務局のみなさまをはじめ、ご参加して頂いた別府のみなさまに心より感謝申し上げます。
昨年11月28日、大分県別府市にてトークセッション「対話工房の『対話の場』東北沿岸・女川町から~3年目の報告〜」が開かれました。このプログラムはベップ・アートマンス2014の一環の企画ですが、2012年に続いて2回目の参加となりました。
当日は市内のギャラリースペースP3/BEP.labを会場に、対話工房から地元別府市出身の草本利枝を中心に、女川町から岡裕彦、代表の海子揮一が宮城県から訪れ、市内からは地域の芸術文化活動の担い手を応援している安部純子さん(別府市市役所)、日名子英明さん(ベップオンガク)そして藤田洋三さん(写真家)が参加しました。会場には市内外より40人近くご来場頂き、真剣に耳を傾けようという熱気に包まれました。
はじめに岡と海子から、女川町の成り立ちから震災を経た現在の様子、そしてこれまでの対話工房の活動を紹介。休憩時間に女川から直送したさんまのすり身で作ったつみれ汁をご堪能頂きました。
トークセッションでは普段の緊密なおつき合いがいかに大事か、という話が中心になりました。
おせっかいを焼くことで生まれる街の豊かさ、お年寄りの記憶や歴史を知ることが防災に活きてくること、など別府の今の暮らしに照らし合わせて様々なエピソードや課題が語られました。
「温泉がコミュニケーションの場。でも今は家の風呂が増えてきて寂しくなっている。温泉それぞれに顔があって良かった。」(安部さん)
「風呂に入ればみんな平等。温泉デモクラシーというのが別府にはある。風呂さえあれば対話ができる。」(藤田さん)
「鈴之助を見ていても、平等に分け合うという考えが女川という港町にあることを感じる」(草本)
「お祭りを作って人が集まる場をつくるのが大事、とお話に同感。単発のイベントに充足するだけではだめ。土地の歴史を学んだり、お年寄りに声を掛けたり、日々の積み重ねが大事」(日名子さん)
「おちゃっこクラブというのはさ、今の政治や経済が壊してきた参加型社会なんだよね。世代を越えて情報もスキルも集まってくる理想的な社会。」(藤田さん)
「街が消えると記憶も消える。なくなって痛感している。大切にしないと。」(岡)
トークの後の交流会では、別府の方々が美味しい食べ物を持ち寄って頂き、楽しく舌鼓を打ちながらいろいろな話が行き交いました。
「今回はなんといっても『おちゃっこ』がキーワードだったね。『おちゃっこすっぺし!』を別府でも流行らせよう!」(藤田さん)
を合い言葉に和やかに閉会となりました。
今回、トーク当日前後に別府市内のいろいろな場所を視察で訪れましたが、どの方にも寛大に迎えていただきました。
とても遠い東北と九州ですが、直に会って話を交わす貴重な機会と時間を分かち合うことができました。今後も緩やかに様々な地域の方々と同じ様な場を共有していければと思います。
皆様ありがとうございました。
[開催情報]
日時:2014年11月28日19:00 - 21:00
会場:P3/BEP.lab(大分県別府市北浜)
概要:映像写真展示に加え、今もその仮設住宅で暮らしながらコミュニティカフェやキッチンカーで住民の対話の場を保ち続けている岡裕彦さんに女川町の「いま」について伺いながら、別府で対話の場を設けます。
主催:一般社団法人対話工房
協力:NPO法人BEPPU PROJECT
外部リンク:ベップ・アートマンス2014
2014年
12月
28日
日
去る12月21日〜22日に女川ネイチャーガイド協会とのコラボ企画「うみやまさんぽ4冬至キャンプ」が行われました。
出島にある配石遺構は山と関係するカレンダーかもしれないという仮説を元に、女川町の最高峰である石投山(いしなげさん)の頂上で一夜を明かすというもので、昨年に引き続いて2年目の開催となりました。今年は月の新月と重なり、太陽と月の運行が同じ日に陽に転じる19年に一度のめでたい「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という日でした。
当日は穏やかな晴天に恵まれ、町内外から集まった7名の参加者は清水地区山の神から登山を開始。協会理事の藤中さんをリーダーに2時間余りを掛けて石投山に登頂。昨年に比べて雪が無かったためか、思いのほかスムーズに登れました。
太陽が沈む前にティピー型テントを設営。みるみる気温は低下していきます。柴をあつめテントの中で焚き火を灯し始めた頃に日は暮れて、一年でもっとも長い夜の始まりです。普段の暮らしと違うゆっくりとした時間が流れます。この夜の気温は氷点下6度。明るさと暖かさを保つために炎を絶やさないよう枝を焼べ続けました。火が勢いを取り戻す度に囲む顔に思わず笑みがほころびます。
厳しい冷え込みに耐えて夜を明かし、今回も無事に出島の沖から昇る冬至の日の出を迎えることができました。女川沖のまっすぐな水平線から昇った太陽が、海や山や木々や街などあらゆるものを照らし始めました。太陽の恵が心身に沁みます。
出島遺跡を作った縄文の人々の真意は誰も確かめられませんか、人間側の活動を太陽の運行に合わせ、隣り合う人と火を囲み食を共にし、直に自然に向き合う時間は、太古から受け継いでいる力や感性を揺り起こすような体験でした。
今回が初トレッキングとなった参加者は「ひと回り生きることがたくましくなった」と語りました。
満天の星空が輝き、鹿の気配に満ちる森の深さ、太古と変わらずに巡る太陽や月が照らす海や山の風景はまるでタイムカプセル。
復興の槌音が響き、街の風景が刻々と変貌していく今、その普遍的な価値と魅力は増々浮かび上がっているかもしれません。
さて今回の対話工房の活動レポートが今年最後となります。
今年もたくさんの出会いと、多くの方々からご協力いただきました。誠にありがとうございます。
「一陽来復」
来年もどうか良い年をお迎えください。
2014年
11月
12日
水
去る11月2日、みちのく潮風トレイルのコラボツアーが牡鹿半島地域を舞台として開催されました。
以下、当日のレポートをお届けします。
対話工房は地元の女川町ネイチャーガイド協会のサポートとして大六天山コースに参加しました。多くの方の協力と参加の元、当日は快晴に恵まれ素晴らしいツアーとなりました。
大六天山コースは、山頂の三国神社を目的地に、針浜側の登山口から登るルートです。大六天山は最近まで針浜地区と山を挟んだ横浦・高白地区の人々から信仰を集めていた山であり、特に沿岸部で操業する漁民の人々にとっては、天候を占う山として、そして極楽世界のシンボルとして大切に敬われてきました。
また女川町の歴史文化の調査で関わって頂いた山田創平さん(社会学者/地域研究家)もコースにまつわる歴史や文化面のコースガイドとして、要所ごとにお話をして頂きました。
10代から70代までの幅広い年齢層の参加者の皆さんも興味深く耳を傾けられていました。
ルートの所要時間は3時間ちかく。総勢50名近くのパーティーとして山間から時折海を臨みながら山頂をめざしました。
大六天山の山頂から広がる眺めは、太陽の下で神々しく輝く霧の雲海の絶景。参加者の誰もがその景色に息をのみました。
Dコースのガイドリーダー青砥さん(女川ネイチャーガイド協会理事長)が静かにつぶやきました。
「この景色を見てほしかった」
わたしたちは、どれだけ人に見て欲しい大切な風景を持てるのでしょうか。あるいはその景色の前で語り合える時間を過ごせるでしょうか。それらが多ければ多いほど、人生は豊かに深みのあるものになるのかもしれません。
参加者の皆様にもこの日のこの風景がそのひとつに加わわれば嬉しいです。
情報と意味に溢れる現代、誰もが手軽に「絶景」をみたような気分になり、他者とも話を交わした様な錯覚を覚える今だからこそ、同じ空気を肌で感じ、笑顔を交わし互いを励ましながら、一筋の道を共に歩む山歩きが各地で脚光を浴びているのかもしれません。自然という人智を越えた「意味のない世界」の中を歩き、火を囲み、星を眺める中で、人それぞれに意味を見いだし、物語を紡ぎだしていく。そしてそれは「道」(トレイル)という形となって人と人を、土地と土地をつないで行くのでしょう。
みちのく潮風トレイルもそのような道として、私たちの社会や自然をつなぎ、愛される道になっていくことを願っています。
2014年
8月
18日
月
8月16日、「女川常夜灯 送り火」が鷲神浜で開かれました。
一昨年から続く「迎え火」の集いが、今回は土曜を選び「送り火」として開催。心配された雨も夕方には晴れ、人々があちこちで焚き火を囲みます。三世代の大所帯や、ご近所同士、旅行者も加わり、49組、123名が参加しました。
3年目の今回は、しっとり落ち着いた趣きです。故人を偲ぶ方、新名物「ほや焼きそば」「ナポリタンドッグ」を味わいつつ語り合う方、線香花火を見つめる子どもたちを、大地から天へ伸びる炎が照らしていました。
2014年
7月
13日
日
6月21日ー22日に女川町出島で行なわれた「うみやまさんぽ夏至/出島キャンプ」は無事終了しました。町外町内、小学生から大ベテランの方まで総勢27名の方のご参加、および島の方のご協力を頂きました。誠にありがとうございました。
震災後、出島など離半島部では人口流出が続き、地域文化を継続するにはとても厳しい状況が続いています。「うみやまさんぽ」とは、地形と歴史から地域住民の精神的な源流を探り、共に新たな観光資源や地域の可能性をさぐる「心の復興」支援プロジェクトです。
幸運にも、出島に出発する直前に、その主旨にご理解いただいた女川町の生涯学習課さまから「円山遺跡」の発掘現場を見学させていただくこともできました。
島では、海水を煮詰めて、かつての島の特産だった「塩作り」を再現。旨味のある味わい深い塩が出来上がりました。山から採って焼いたタケノコにつけたり、塩むすびを作ったりと参加者一同、その味に感激しました。
その合間に、往来が途絶えてしまった島の東側の探索、そして「夏至の日没が石投山の山頂に来る」という仮説を検証すべく縄文時代の石の遺跡を訪れました。曇り空で仮説を確かめることは叶いませんでしたが、夜の交流会では焚き火を囲み、釣れたての新鮮な魚介類と作った「出島の塩」を味わいながら、寺間地区にお住まいの方々から島に眠る様々な記憶やエピソードを教えて頂きました。
「東岸には『ソラクッツボロ』というとんでもない穴が空いててね、深さは10メートルはあるんでねぇか。『ボロ』つうのは洞窟のことで、舟が通れるのもあるんだよ」
「塩をつくるのに薪になる木が足んなくて、火事が出ても(薪になりそうなものを守れと)床板すら外したらしいよ。」
「親は基本的な道具の使い方は教えてくれたけど、漁師というのは、自分で腕や勘を磨かないとなんねのさ。漁場を見つけたら、島の木や山の位置を覚えて、これを山測りというんだけど、目印にするのっしゃ。しかしねー、魚はホントに同じところに来る。変わんないね。」
等々、貴重なお話をお聞きしました。
縄文時代から現代まで、という大きな時間のスケール感をもった企画でしたが、自然の豊かさや太陽の運行の前では、現在も過去もなく、常に等しく人と自然の対話と関係が折り結ばれているのかも知れません。そこに豊かな環境があればこそ。その魅力の豊かさを改めて実感するツアーでした。
今回得られたたくさんの「宝物」や情報は、時間を掛けて整理して、島や町の方々にお返しする予定です。また、女川ネイチャーガイド協会さんとも、秋~冬にかけて東側(特にソラクッツボロ)の探索をしよう!と計画を温めています。これからも様々な視点をもった多様な参加者をお招きして、出島や女川の自然や歴史を探索していく計画です。
ーーー大事なことは、まず資源を見つけることである。こういう工夫は若いものでなければならない。それも一人ではできない。みんなで集まって空想をはたらかせてみることである。ーーー
(宮本常一「日本の離島」より)
2013年
12月
18日
水
震災後の暮らしの中で新たに海や山の価値に気づいたという声を多く聞きます。恵みをもたらし災害を招く自然との新しい関わりを、様々な表現により形作り共有していく活動が「うみやまさんぽ」です。身近な海と山が持つ歴史や特性を知り、地域づくりや将来の災害に備えていく取り組みとして女川町内外の人々が連携して取り組んでいます。
その一環として、女川町の三角峰・石投山(467m)の山頂に登り、12月22日(冬至)の日の出を眺めよう。そんな小さな冒険が計画されています。企画の発端は、出島の謎のストーンサークルと呼ばれる配石遺構についての、ある地域研究家の仮説。2012年秋に女川を訪れた山田創平さん(京都精華大学)は「遺構は海洋民族の末裔、古代女川人の暦だった可能性もあるのではないか。太陽が地形と遺跡に関係する事例は各地にあります」と言います。この仮説によれば、夏至の太陽は出島遺跡から見て石投山山頂に沈み、逆に冬至の日の出は同山頂から見て出島遺跡の方角から上るとのこと。この歴史と地形に基づく仮説に、震災後から女川の山の価値を守る活動を始めた女川ネイチャーガイド協会理事の藤中郁生さんが共鳴。瞬く間に10名の参加者が集まりました。
藤中さんは「とても夢ふくらむ話。女川に生まれ育っても石投山山頂からこの街を見た人は少ないと思う。ぜひこの目で日の出を確かめたい」
とにこやかに語りました。
清水地区の奥から山頂までは、健康な成人男性の足で約2時間。頂から広がる景色は海と山が美しく重なり、地球を感じる程のパノラマの絶景だといいます。現在は伸びた枝越しの眺めですが、今後ルートと山頂部の整備が進めば、金華山から気仙沼まで一望できる場所になります。宮ヶ崎の浜から山頂付近までつながる広い林道もあり、海と山を連携させた観光資源の可能性も秘めています。協会では「整備は始まったばかりだが、女川の子ども達が登り、故郷の雄大な自然を見て心に刻めるような山にしたい」と期待を寄せます。この記事を執筆中の現在(2013年12月18日)は登頂直前ですが、次号この紙面で、気になる 当日の日の出の報告もできたらと思います。
(写真)企画に向けて、女川ネイチャーガイド協会の手で山頂に至るルート整備が急ピッチで進められている。一歩一歩林道に茂った雑草や潅木を切り払うという地道な作業。鹿の群れやハンターと遭遇することも多いという。
2012年
9月
20日
木
宮城県女川町での「迎え火」は、2012年8月13日に予定どおり開催することができました。対話工房では、現地の主催者の方々をお手伝いし、準備段階から当日、及びその後の振返りと来年に向けての話合いの場までご一緒させてもらいました。
実現のために結集した地元の各世代のみなさん、また個人・団体を問わず各地から支えて下さった方々、そして何よりこの「迎え火」に参加なさった女川町のみなさんをはじめとして、この貴重な一夜を共にすごした全ての方々にお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
当日のようすなどはFacebookでも一部お伝えしています。また、「迎え火」への関わりは、対話工房にとっては東京文化発信プロジェクト室との連携、アサヒ・アート・フェスティバル2012への参加プロジェクトという顔も持ちます。こうした背景も含め、このサイトでのレポートや他メディアへの寄稿など、メンバーそれぞれがこの「迎え火」を通して感じたことをお伝えしていけたらとも思っています。
※すでに各メディアでもご紹介頂いていますので、これも別途まとめてこのサイトでご紹介予定です。
女川町の主催者の方々は、来年以降も「迎え火」を町の年中行事として長く続けていくことを願っています。対話工房でも引き続き、その営みのお手伝いができたらと思います。
(対話工房一同)
2012年
5月
12日
土
2012年4月14, 15日の両日、対話工房は東京で「AAF2012ネットワーク会議」に参加し、活動紹介と交流を行ってきました。
アサヒ・アート・フェスティバル(AAF)は、全国のアートNPOや市民グループと、アサヒビールなどが協働で開催しています。期間中(今年は6月16日〜10月14日)、北海道から沖縄までの各参加団体が、それぞれの開催地で地域資源に着目したアートプロジェクトを展開するものです。11周年を迎える今年は例年の2倍となる51団体が参加。初の試みである、ネットワークを目的とした団体の参加29件も含まれます。対話工房も初参加することとなり、関係者が初集合する今回の会議に出席しました。
初日は各団体がスライド3枚を使ってそれぞれの活動や、今回実施予定の企画をプレゼンしました。対話工房からは海子が登壇し、活動主旨を説明。AAF2012においては、夏に宮城県女川町で「女川常夜灯」というアートプロジェクトを計画しています。また、会場内の展示エリアでは、対話工房のキャンパーバスの資料も紹介。他団体からも活用希望があれば検討を考えています。会議後には懇親会も行われ、参加者間の交流も生まれました。
2日目はオリエンテーションのほか、参加者同士のグループディスカッションが行われました。さらに、全国のAAF実行委員による拡大実行委員会が話し合う円卓会議を開催。さまざまな議論が交わされました。AAFの特徴は、この円卓会議でAAFの仕組み自体が議論され変化して行く可能性が担保されていること。実行委員会のありかた、各地の団体間同士の交流の仕組み等が話合われました。最後は恒例のAAF率いる加藤種男さんからのご挨拶で締めくくられました。
会が終わると、まだ外は明るいものの、全国各地から集まったアートNPOの宴会が開催され、対話工房はその場にキャンピングカーをお披露目に出向きました。ぎゅうぎゅうワイワイAAF関係者がキャンパーになだれ込み騒然。ぜひAAFネットワークの皆様にもキャンパーをご活用頂きたいものです。
※今回のお披露目の為のキャンパー出張においては、向島の現代美術製作所の曽我さんから駐車場の提供をご協力頂きました。ありがとうございました。
今後AAF2012では、会期スタートとなる6月16日(土)にグランドオープン・パーティーを予定。対話工房では前述の夏のプロジェクトの準備を進めていきます。詳細はまたこのサイトでお知らせしていきたいと思います。
参考:AAF2012ネットワーク会議の映像アーカイブ(1日目 オリエンテーション/プレゼンテーションの様子)
2012年
3月
31日
土
文・写真:海子揮一
コミュニティカフェプロジェクトの第4回となるワークショップ「カフェづくり× つくる・きく・はなす」後編が2月19日に開かれました。参加者と共に前回のワークショップで製作されたギャラリーの壁のペンキ仕上げと、店内の壁の一部を「灯台しっくい」で仕上げました。
職人さんと下地作り
今回、特別講師として塗装職人の太宰聖一さんをお迎えしました。太宰さんはお父さんから伝えられた灯台の為の石灰塗料の技術を受け継いでいる方で、ワークショップの日に実際に材料を調合し、参加者への塗り方の指導の為にお招きしました。
前日の18日、太宰さんの協力の元で、対話工房のメンバーである小山田・海子と共に下地作りとなる「パテかい」作業を行いました。おちゃっこクラブが通常営業の日のため、来店したお客さんの視線を感じながらの作業。普段は黙々と建築現場で孤独な作業が多い太宰さんにとっては、少し緊張する時間だったようです。パテ作業にはメンバーの岡と息子の鈴之助くんも参加。時には代替バスの出発を待っていた若者も加わって少しずつ進んで行きました。夜には力強い助っ人も現れました。大阪から車で駆けつけてくれた白石さんは内装業が本職。慣れた手つきで持参した道具を自在に操り、作業が俄然スピードアップ。まさに下地作りの救世主でした。
灯台しっくいをつくる
ワークショップ当日の朝、太宰さんはおちゃっこクラブの脇にある空き地にドラム缶と海水の入ったタンクを運びこみました。「灯台しっくい」の調合の始まりです。石灰石と海水を混ぜ合わせると反応して高温の熱が発生します。その温度は200度近く。大量の水蒸気が立ち上る中、太宰さんは真っ白になりながら撹拌を続けました。さらに膠やスサ、砂を加えて、温度が冷めれば「灯台しっくい」の完成です。
この「灯台しっくい」の元は太宰さんのお父さんが若かりし頃、第二管区海上保安庁の仕事で東北各地沿岸にある灯台を塗り替える仕事の中で身に付けた技術でした。20代だったお父さんは石灰石と道具だけを持ち歩き、各地で人足を集め、断崖絶壁の上にある灯台でもロープに吊られながら上から下へと上下を繰り返して灯台を塗りあげていったそうです。現代では合成樹脂の塗料が主流となり、危険度も労力もはるかに改善され、この「灯台しっくい」の技術とエピソードは忘れ去られようとしています。しかし、実際に材料を作り、材料に触れて手を動かすことで、新しい物語を加えて未来へと引き継がれていく可能性が生まれるのです。それは津波によってモノとの関係を断たれてしまった人々にとって、もう一度新たに関係性を築いていく大事なステップとなると考えています。
いよいよ壁塗り
材料が冷えて、壁塗りができる準備が整いました。子供も大人も壁塗りの上ではどちらも初体験。塗り方も道具もそれぞれ自由。子供たちも最初はなれない作業に集中できずに漫然と壁に塗りつけているだけでしたが、やがて独自の塗り方を発見して、緻密に平らにしていく子、大胆に仕上げていく子、大人顔負けのコテさばきを見せる子など個性がそのまま壁に転写されていきした。けっして楽な作業ではありませんでしたが、夕方までにはカフェの間仕切り部分の壁が仕上がりました。完成した壁をみると実に表情が豊かなものになっています。彼らが成長して大人になるころにはこの仮設カフェは残っていないかもしれないけれど、きっとこの日の作業の思い出は忘れないことでしょう。
新しい記憶を壁に塗りこむ
自分の手を動かした後が形となる。たとえそれが整っていなくとも、記憶や想いという表現を受け止める場がまだまだ足りないことを実感します。特に仮設暮らしを余儀なくされている人々にとっては、いずれまた転居を迫られるまでの仮の関係性でしかない、と虚しさが入り混じった暮らしであるかもしれません。
しかしモノの寿命と人の関わりや出会いというのは必ずしも比例しない気がします。
震災後、女川に関わるきっかけとなった、私の設計したカフェ「ダイヤモンドヘッド」は5年に満たずに流されてしまいました。その5年に満たない月日の間にそのお店を取り巻いていた人々の輪や、たくさんのエピソードを被災後の今でも女川で会う人からたびたび耳にすることがあります。その記憶と人のつながりが対話の場を再び求め、今のおちゃっこクラブを立ち上げる原動力になったと聞いています。
かつてのダイヤモンドヘッドの内装は同じ灯台しっくいで仕上げられていました。講師の太宰さんは、実際にその工事を担当した方でもあるのです。今回のワークショップで目指したものは、女川の人々の核となっていた場のひとつの再現であると共に、これからの5年、おちゃっこクラブが新しく人のつながりと記憶を生み出していくという物語のはじまりでもあるのです。
ゆえにプレハブでありながら、これは「仮設ではない」という宣言でもあるのです。
ギャラリーの壁のペンキも19日中に仕上げることができました。滑らかな壁の仕上がりも上々です。今後は更にスポットライト照明も増設し、女川の今を映す表現と対話の場として活用してもらうように準備していく予定です。
おちゃっこクラブにお越しの際にはギャラリーの展示中の作品と共に、「灯台しっくい」の壁もぜひ着目してみてください。
2012年
3月
21日
水
2012年1月29〜30日、対話工房の「女川コミュニティカフェプロジェクト」における第3回のワークショップが開かれました。今回のレポートでは、そのようすをお知らせします。
ギャラリーづくり×つくる・きく・はなす
文(1日目):内田伸一
ワークショップの場所は今回も、宮城県・女川町地域医療センター(旧女川町立病院)前の仮設コミュニティスペース「おちゃっこクラブ」。このお店は、プレファブの仮設住宅を使った町民施設が並ぶ一棟の中にあります(ちなみにお隣は歯医者さんと薬局)。この場所の人気メニューになったソフトクリームのオブジェと、手作りの看板が目印です。
第1回ワークショップでは、この「おちゃっこクラブ」が町にとってどんな場所になるとよいかを、地元在住メンバーの岡をはじめ、住民のみなさんと話し合いました。そして第2回は、沖縄から対話工房に参加しているティトス・リプリーを案内役に、紙製の空飛ぶランタンづくりに挑戦。地元の子どもたちも参加し、未来への想いを書き添えたランタンを夜空に飛ばすひとときを過ごしました。
「おちゃっこクラブ」は現在、岡夫妻がコミュニティカフェとしてきりもりを始めています。ここをより魅力的な集いの場にできたらと、お店の一角に手づくりのギャラリースペースも作ろうということになりました。そこで今回のワークショップでは、大工仕事をしながらギャラリーのための壁を皆でつくりあげることに挑戦します。
ひとつずつ、すこしずつ組み上がる新しい場所
朝10時からはじまったワークショップ。今回は体を使った大工仕事なので、まずはラジオ体操で手足をほぐします。1日目の目標は、ギャラリー空間のために、お店の半分弱の内壁へベニヤの下地を貼付けるところまで。進行役は対話工房の海子と小山田がつとめます。建築家の海子は、岡店長が津波の前に女川港で開いていたお店「ダイヤモンドヘッド」の内装設計も手がけました。小山田は各地でコミュニティづくりの経験から、大工仕事はお手のもの?
頼りになるといえば、忘れてはならないのが、岡の息子で小学生の鈴之助くん。最近、秘密基地づくりに凝っている彼は、大工仕事にも興味津々です。やはり女川出身で、いまは石巻で高校の美術講師をつとめる梶原さんも参加してくれました。彼女は、高校生たちと一緒につくった表札を仮設住宅の方々に贈る取り組みもしているかた(詳細はこちら)。ほか、メンバーの知人からも、海子の旧友・金野さんや、相澤の建築家仲間・友寄さんらが合流。国際交流基金の研究員として日本のコミュニティとアートの関係を調査するため訪れたキース・ウィットルさんも、気づけばのこぎりを手に取ってくれていました。
まずは、壁にある2つの窓をふさぎます。結露防止のスタイロフォームを窓のサイズに上手く切り貼りする作業では、対話工房の渡邉が奮闘。デザイナーの彼にとって、定規とカッターは慣れ親しんだトモダチ? 下地作業も同時進行します。既存の壁に木材で格子状に骨組みを組んだうえで、そこに板を貼り込んでいくことにしました。対話工房の映像担当・泉山も、かつて美術展設営を手伝ってきた腕前を発揮。測量ツールさばきも堂に入っている彼と小山田には、さっそく「棟梁」のあだながつきました。
骨組みの木材は、のこぎりで長さを揃えます。このあたりからは、参加者のみなさんで一緒に作業。対話工房の女性陣、建築家の相澤と写真家の草元も参戦します。ふだん編集・ライター業の内田は手先が不器用なので…鈴之助君にも手伝ってもらったりしながらの作業です。
切り揃えた木材は、噛み合わせ部をノミで抜き落とします。ここで鈴之助くん大活躍。スコーンスコーンと木材にノミが入るのが気持ち良いのか、「いくよ?いくよ〜!」と元気よく声を上げながら次々と仕上げてくれました。端材も集めていたので、秘密基地に使うのかもしれません。
途中、「おちゃっこクラブ」の名物、岡ママ自慢のナポリタンや、外で焼いた石焼き芋をほおばりながら休憩。近くの工業高校で作ったものを譲ってもらったという鉄製焼き釜のふたを開けると、モクモクと煙があがり、その向こうから仙人(?)のように岡が芋を差し出してくれました。まだ寒い1月の女川町。高台から冬の海を眺める参加者の想いはそれぞれだったと思いますが、暖かい焼き釜を囲んでの休憩はほっとするひとときでした。
それぞれの郷土料理を持ち寄っての夕食会
美味しい食事で元気を補給しながら、作業は続きます。枠組みの木材は、既存の壁の支柱部分を探りながら打ち付けていきました。切っている最中にはわからなかったのですが、それぞれの長さの木材に、それぞれの場所と役割があります。すべてがうまく組合わさることで、新たな壁のための頑丈な枠組みができあがりました。
そしていよいよ、この日最後の作業。ベニヤ板を貼っていきます。畳一枚ほどのサイズのベニヤ板を、どう切り出し、組み合わせればシンプルに全面を覆えるか、現場の試行錯誤も交えつつ決めていきます。電動ドライバーの音が響き、ラストスパート。そしてついに完成です!(といってもまだ下地ですが)。この日の作業はひとまずここまで。
そのまま「おちゃっこクラブ」で夕食が始まりました。この日のもうひとつのお楽しみ、それは対話工房メンバーそれぞれが、故郷の名物料理を持ち込むご飯会です。宮城の名取市に住む海子は、お手製のセリのおひたしを。渡邉は仙台在住ですが、実家・栃木の名物「しもつかれ」をお母さんの手づくりで持参。また別府出身の草本は「だんご汁」を、高校生まで沖縄ですごした内田は、お麩(ふ)の炒め物「フーチャンプルー」をふるまいました。
夕食会には、女川町復興連絡協議会の鈴木敬幸さんをはじめ、新たに地元の方々がいらしてくれました。なかには手づくりのシフォンケーキを持ってきて下さるという、嬉しい飛び入り参加も。えずこホール(仙南芸術文化ホール)のスタッフの方や、ドイツ大使館の震災支援担当官・ライナー・シュルツさんなど、対話工房の活動に協力してくださる人々もそれぞれのお仕事の合間に合流。話がはずみ、岡一家は特製ハイボールほか、飲み物の用意に大忙しです。
ベニヤで覆われた作業途中の「おちゃっこクラブ」で、大所帯の家族の食卓のようなひととき。「おちゃっこクラブ」の新メニューを考える、というもうひとつの目的もあってのこの試み、もしかしたら、ここから新たな名物のアイデアが生まれるかもしれません。
アイデアといえば、この夜の語らいの中から、夏には女川で「一夜の小さな火を灯そう」という話が持ち上がりました。その後、この案は実現に向けて動きだしています(詳細はまたこのサイトでご報告します)。コミュニケ-ションを大切な軸にする対話工房として、こうした自然な語らいから次の活動のきっかけが生まれたのも、嬉しい出来事でした。
翌日は今回の仕上げ作業。ここまでのテキスト担当・内田は残念ながら翌朝移動してしまったので、以降は海子さん、お願いします!
翌日、下地壁の仕上げへ
文(2日目):海子 揮一
次の日の朝、宿泊先の「華夕美」で二手にわかれた対話工房チーム。作業班である小山田・泉山・海子、そして金野さんの4人は朝9時におちゃっこクラブに到着しました。この日は雪が薄っすらと被災した町を覆い、高台から眺める女川湾はとりわけ美しく、作業が始まる前の静かな現場の空気には厳かな気配すら漂っていました。
平日であるため、特に参加者の募集は予定しておらず、対話工房メンバーだけでこの日の作業を進めました。前日に下地のコンパネ張りまで進むことができたので、「棟梁」の小山田と泉山の二人で作業のほとんどをこなすことができました。作業は塗装の仕上げの下地となる石膏ボード(石膏を紙でサンドイッチした一般的な建材)をギャラリーの壁一面にビスで張っていくものです。こういった作業全般に言えることですが、下地づくりの出来不出来によってその後の工程の作業は大きく影響されます。専門の職人が何気なく当たり前にしていることなので、仕上がった一枚の壁からはイメージできないかもしれません。自分たちでこの作業をやるにはいくつかのコツと道具が必要ですが、完成までのプロセスを知ることは「場」を自分の手で獲得していける自信へとつながります。
作業は極めて順調に進み、午前中でそのすべての工程を終えることができました。出来上がってみればそこに3つの窓があったことすら忘れてしまうようで、壁がもつ安心感と、断熱材を入れたことで部屋が格段に暖かくなりました。
翌月の第4回ワークショップでは、いよいよ仕上げとして白いペンキと、一部には女川の海の水からつくった「灯台しっくい」をみんなの手で塗っていく予定です。とても完成が楽しみです。
[今回の壁作りに使った道具たち]※左から
差し金、のこぎり、のみ、水準器、ボード用カンナ、クランプ、かんな、ドライバ、玄能(金槌)、ボード用やすり、コンベックス、電動丸鋸、えんぴつ、下げ振り、カッターナイフ、チョークライン、充電式電動インパクトドライバー、養生テープ、引き回し鋸、ネイルハンマー
2012年
3月
20日
火
文:ティトゥス・スプリー(対話工房メンバー)
女川の印象
昨年9月、私は初めて東北地方を訪れたので、大震災後の東北しか経験していない。この時すでに瓦礫のほとんどは撤去されつつあり、町だった場所は雑草が生えた無名の更地になろうとしていた。人々の生活の場だった事実は、残されたわずかな痕跡から辿らざるを得なかった。人間の空間であった場所、また過酷な経験があった場所は、私の前で沈黙していた。
それと対照的だったのは非常に厳密に計画された仮設住宅の街だった。現在の女川はこの2つの極に挟まれて形作られていると感じた。「記憶のまち」と「仮設のまち」…2つのまちがこの女川に同時に存在している。
しかし、状況的には膠着しているという印象と同時に、女川住民一人一人の創造的なエネルギーも感じた。
女川の状況を見てもう一つ頭にモヤモヤと巡ったのは、人間と自然の関係についてだった。人間は自然の中でどれだけ虚弱な存在であるのか。人工的に開発されコントロールされていると思い込んでいる環境は、この地球上のどれだけ薄い「層」でしかないのか。
日常の便利な生活で消されてきた自然の存在感が改めて思い出される。人間の生き方は自然の力や自然の流れに根本的に合わせないと続けられない。どんなに豊かな知識も、どんなに進んだ技術も、自然の力には対抗できない。自然の力を読むには、人間の感覚から生まれてくる想像力が一番重要ではないだろうか。そもそも想像力とは自然の力に対抗するために、人間が自ら開発した能力ではないのだろうか。
特に原子力発電所が身近に存在している女川で復興に邁進する中、人々が自然との関係をどう作り直すのかが大きなポイントになるだろうと思った。
スカイランタンワークショップ
今回第2回目となるワークショップの内容は、まずカフェスペースのために何かを作ろう、という話しから始まった。灯りが少なくなった女川の夜にもっと心温まる灯りをともしたいと考え、それがランタンづくりの発想につながっていった。スカイランタンを女川の空に飛ばしたいという考えが芽生えたのは、9月初めて女川に来た時だと思う。高台の病院の下に広がる海とそこに面した消えたまちを見た時、そこに何かを解放したい気持ちになっていた。リアス式海岸特有の景色の女川湾から、遠く海を越えて飛んで行く一つの光を想像した時、この場所の記憶を参加者自らの手で変えられるのではないかという仮説を立てた。
当初、スカイランタンづくりはワークショップのメイン企画ではなく、むしろ付録として考えていた。ところがワークショップ当日は子供が多く集まり、彼らと一緒に作っている間に、気が付けばランタンを作り、女川の空に飛ばす為に沖縄から飛んできたということになっていた。
参加者の皆さんとランタンを作り始め、完成に近づくにつれ、本当に飛ぶのか?実際に飛ばすのか?と、会場のおちゃっこクラブ店内はどんどん緊張感が上がってきた。
その初飛行の一個目、火を点してもスムーズに上昇せず、ランタンは不器用に空に上がっていった。たどたどしく飛び上がり、歓声や悲鳴と共にその行方を皆と消えるまで見届けたことが一番印象に残っている。あの時間、大人も一緒に子どもになっていた気がした。あの場所には、飛ばして大丈夫か?という心配を超えて、飛ばしてしてやろう!というエネルギーが満ち溢れ、ランタンの飛翔と共に一気に解放され、後には熱い空気が残った。
※スカイランタン飛翔(2個目)の映像はこちら。
子供たち
まだ短い時間しか関われていないので印象だけではあるが、子どもの生命力はとても強いと感じた。子ども自身の前向きな生き方はこういう大震災の体験があっても失われないだろうが、それに比べて周りの大人へは大きな影響があると思った。おそらく大人は厳しい状況下であればあるほど「子どもを守りたい」と思うのだろうが、大人が心配や苦しみを抱えて隠せば隠すほどに、子どもはそれを強く感じるのではないだろうか。
このような状況の中、一番必要ではないかと思ったのは、大人から一歩離れ、子どもたちが気持ちを解放できる場である。大震災では子どもたちも大変なストレスを負い、もちろん大人のケアを必要としているが、子どもしか持ってないエネルギーは大人が縛りすぎれば失われる性質のもの。自由に遊びながらストレスやテンションを解放する機会と場が多くあった方がいいと思う。
気楽に遊べる安全な場、また自然の中で人間の悩みの浄化を助ける場が必要ではないかと思った。人智を超えた自然の予想できない力から直に圧倒された人々だからこそ、あえて自然との関係を大切にしてほしいと願う。
そしてそれは女川にとどまらず、大震災から自然を学び考える機会として、多くの人々に受け取ってもらう必要があるのではないかと思う。
ティトゥス スプリー Titus Spree
(建築家・美術家・琉球大学教育学部美術教育准教授)
1966年ドイツのウルム生まれ。 1986年ミラノのドムスアカデミー卒業。 1994年ベルリン芸術大学において建築の修士課程修了。 1996年日本に留学、東京大学建築学科で研究生と大学院博士課程 2001年より沖縄を拠点に、建築・デザイン・アート・教育を横断的に結びつける国際的な活動を展開。 、「向島ネットワーク」(東京墨田区)、「プラットフォーム-C カッパドキア・アカデミー」(トルコのカッパドキア)、「ワナキオ」(沖縄那覇市)など多数のアートと地域再生プロジェクトでディレクターを務める。
2012年
3月
19日
月
「対話日記」では、対話工房に関わる人々それぞれの視点によることばを紹介していきます。今回は、東京からの参加メンバーのひとり、内田伸一が担当。彼が対話工房に参加するきっかけになった、2011年9月・初めての女川町訪問を記した体験記です。
取材・文:内田伸一
2011年9月。震災から半年後の宮城県・女川町を訪ねました。この町の仮設住宅エリアで行われた「手遊び(てすさび)カフェ」を取材したので、そこで行われたこと、また当地で感じたことを記しておきます。フリーランスライターの僕は、ふだん暮らす東京で3月11日を体験しました。その後、大勢がボランティアなどで東北に向かうなか悶々とすることもありましたが、今回初めて震災後の東北を訪れた人間です。直後に現地を訪れた人や、何度も通う人とは視点も違うと思いますが、震災とこれからを継続的に語り合うとき、少しでも役立つ要素がこのテキストにあればと願います。
2011年9月時点の女川町のようす
女川町は宮城県牡鹿郡群にある港町。水産都市・石巻市に囲まれるように立地し、豊かな海の幸が集まる漁港として知られます。しかし震災では沿岸部を中心に甚大な被害を受けました。また、町の南側にある女川原子力発電所(東北電力)では、津波の直撃は逃れたものの全原子炉が自動停止したとのことです。
9月17日、震災リゲインのメンバーと車で女川町入り。沿岸へ近づくにつれ震災の爪痕が目につきます。海から離れた谷間の土地にも見られる津波のあとや、海水で下半分が赤く変色した森、土台を残し崩壊した女川駅。そして女川漁港の周りにあったという繁華街は、いくつかの大型建築を残して波にさらわれた状態です。鉄筋がちぎれ、真横に倒れた建物もありました。
しかし僕にとって一番印象的だったのは、あたり一帯にモノがなくなってしまった“かつて街だった場所”の空虚さです。高台の町立病院からこの風景を眺めて思いました。街とはこんなふうに消えてしまうものなのか。それは震災後半年の瓦礫撤去の成果でもあり、復興を進める町にそんな感想は失礼かもしれません。ただ、他所者にはかつての町の姿を想像できないほどの消失感に衝撃を受けました。また、女川町では震災で約900人が犠牲になっています。自分の町の住人が1割近くいなくなってしまった。これも想像しがたいものです。この町はそうした状況からの再生を目指す過程にあります。
「手遊び(てすさび)カフェ」とは何か
そして、生き延びた方々の暮らしも確かにここにあります。内陸側の高所は、沿岸の平地ほどには被災していません。今回訪ねた女川第一小学校 応急仮説住宅もそうした場所のひとつ。学校のグラウンドを用い、60近い住宅が軒を並べます。ここで行われる「手遊びカフェ」の取材がこの日の目的でした。
手遊びカフェとは、京都市立芸術大学の学生と先生がたによる試み。訪れた先で仮設カフェを開き、地域の人々とお茶を飲みながら、伝統的な手仕事を共に行います。こうした作業は心を少し落ちつけたり、何気ない会話のきっかけをくれたりするようです。そうして住民主体で気軽に集える場づくりを手伝いつつ、人々の生活で本当に必要とされているモノ・コトを考える取り組みです。
到着するとすでに仮説住宅の集会場前に、手作りの折りたたみ式テーブル&ベンチが広げられていました。玄米茶やジンジャーエール、またビスコッティなどのお菓子をふるまう屋台カフェに並んで、各種の「手遊び」屋台があります。
「染め抜き屋台」では暖簾や衣服を持ち寄り、ステンシルの手法で好きな文字や絵を染められます。「こぎん刺し屋台」は、青森に伝わる刺繍法でオリジナルの包みボタンを作ります。「金継ぎ屋台」では欠けた陶器の修復のほか、漆器への箔模様付けなども体験可能。ほかにも大工道具を揃えた、よろず相談コーナーがありました。けして広いとは言えない約9坪の住宅に役立つ、棚づくりなどを手伝っています。教員のひとり、小山田徹 准教授に話を聞きました。
「もともと“緊急避難時におけるコミュニティを考える”というテーマで、大学内の特別研究助成を活用した自主ゼミ的な動きが出発点です。生徒たちから提案があり、彼らが僕たちを担当教員として指名しました。議論を行い、皆で保存食をつくるなどの活動から、被災地での手遊びカフェ実施も決まりました。ボランティア的な意味だけでなく、皆が自身の生活やコミュニティを考える機会になればと思っています」。
小山田さんはパフォーマンスグループ「ダムタイプ」の一員として知られるほか、コミュニケーションや共有空間をテーマにさまざまな活動を続けています。今回のことも、ご自身は「作家としてというより、ただ生活空間をどう考え、つくっていくか。その試みの延長線上にあります」と話していました。
震災で失われたのは命や建物だけでなく、生き延びた人々の地域コミュニティ分断も懸念されます。避難所や仮設住宅は非常事態の寄り集まり。集会所もありますが、当然、建物さえあれば人のつながりが生まれるというほど簡単ではありません。そうした状況でのつながりの場づくりを、住民の自主性を損ねない形で後押しするのが、手遊びカフェの目標のひとつといえそうです。
「染め抜き屋台」を体験してみる
僕は頭に巻いていた手ぬぐいを使い、「染め抜き屋台」に参加させてもらいしました。教えてくれるのは、工芸家の元気な学生のみなさん。仮設住宅で暮らすお年寄りや、子どもと一緒のお母さんたちも一緒です。カラフルな顔料が並ぶ作業台を前に「まず染めたい文字や模様を決めましょうか」と聞かれ、「では、去年生まれた長男の絵にしたいです」と答えました。
言ってすぐ、しまったと思いました。ここには震災で幼い家族を失った人もいるかもしれない。当然のことに頭が回らない自分を恥じましたが、幸い隣のおばあちゃんも「私も孫が5人」「染め抜きは母も昔よくやった」と教えてくれて、短い時間ながら皆で話ができました。ここではありふれた会話にも気を遣う場面が少なからずあるのではないか、しかしそこから前へ進む助けになり得るのもまた対話ではないか(僕の失敗談は別として)、と感じた次第です。
染め抜きは、自分で描いた絵を学生さんが型に起こし、それをまた自分でカット。生地にのせて好きな顔料を塗ると、綺麗にできあがります。ほかにも漆器に名前を箔押ししてもらう女性や、ボタンづくりに一生懸命な子どもたちの姿が。仮設住宅の一角にのんびりとした活気が生まれました。
夕方には集会所で映画上映も。これはカフェと別の動きですが、映像の仕事に携わる方が奔走し、無料上映許可を得て実現したそうです。皆が少しずつ、自分にできるかたちで、新生活の始点としての仮設住宅に向き合っているように感じた一日でした。
滞在中に見聞きし、感じたこと
もちろん、町にはまだ多くの課題があるだろうことも痛感させられます。例えば今回、自室に棚を取り付けてもらったご老人のお話。「海で稼いだ金で建てた家が、海に持ってかれたね」と寂しそうに微笑む彼は、仮設住宅の契約期間=2年が切れた後のことを心配しています。自宅のあった土地にまた家を建ててよいのか、または売却などの措置がとれるのか、未だにわからない。今日も自治体の説明会に行ってきけれど…と話してくれました。
さらに、この時点ではまだ仮設住宅に入居できず、隣の小学校校舎をはじめとする避難所での生活が続く方々もいたようです。そうした違いによる双方の心理的緊張は少なからずあるのではないでしょうか。この町に来る途中で出会った被災地ボランティアの青年は「仮設住宅同士でも、ちょっとした設備の優劣が住民を刺激してしまう」と話していました。これも震災後の地域コミュニティにある、見えない傷かもしれません。
ただ、自分たちで新たにつながりの場を作ろうと動き出している人々がいるのも確かです。今回の手遊びカフェ実現にも、彼らに賛同した2人の働きがありました。この仮設住宅で暮らす岡裕彦さんと、彼の飲食店(津波で消失)の改装を手がけた県内名取市の建築家・海子揮一さん。サーフィンと音楽を愛するワイルドな風貌の岡さんと、対照的に落ち着いた笑顔が魅力的な海子さん。彼らは京都での小山田さんらの動きに共鳴し、再び手を携えています。
それぞれが持ち帰ったものとは
翌朝は女川町の西・約45kmにある「長松園森林公園町民の森」のキャンプ場へ。手遊びカフェの一行はここで夜を過ごし、京都へ戻る支度中でした。昨日の感想を尋ねると、よろず相談で棚を作った男子生徒は「学校ではできたことが、少し道具が足りないだけで上手くいかないなど、自分の無力さに歯がゆい思いをした」と語りました。包みボタンづくりを担当した工芸科の女子生徒は「工芸品を実際に使ってくれる人の顔、そして使ってもらえる場に向き合えたことで、逆にこちらが元気をもらった」とのこと。
小山田・海子両氏には、今回同行した映像作家の泉山朗土さんがインタビューし、その映像はこちらで見ることができます。収録後に「大震災からの復興という大局的な課題に対し、手遊びカフェのような局所的と言ってよい試みがどうつながると思うか」と聞くと、小山田さんは短くこう答えました。「大局的なことを動かすには、結局たくさんの局所的な動きが必要だと思うんです」。
この取材の後、11月には女川町長選が行われ、新人の須田善明氏が無投票で当選。女川高校グラウンドには金融機関や郵便局を含む合同庁舎が整備され、商業エリアのオープンも目指されています。避難所住まいの方々の仮設住宅への引越は完了したとも聞きますが、現地は厳しい冬を迎えました。
いっぽう岡さんたちは女川町立病院の敷地内で、新たなコミュニティカフェ「おちゃっこ倶楽部」を始めました。海子さんと震災リゲインのメンバーも「対話工房」プロジェクトをスタートすることになりました。
僕自身はあの震災をきっかけに、誰とどんなふうに、どの程度関わり得るのかまだ明確な答を得ていません。東京に戻るとまた自分の日常が追いかけてきました。しかし、目の前の道路を北へ400km走った先にあの町が、そして話をしてくれた人々の顔があることは忘れずにいたい。そして、あそこでの日常と僕のそれとは必ずしも別ではないということも。できればまた訪れ、話をし、考えたいと思っています。
内田 伸一 Shinichi Uchida
(ライター・編集者)
1971年、福島県いわき市生まれ。東京在住。岩手大学人文科 学部人文科学科(行動科学研究)卒業。若手建築家たちによる雑誌『A』、英国発 カルチャー誌の日本版『Dazed & Confused Japan』、カルチャーウェブサイト 『REALTOKYO』などに参加。日英バイリンガルの現代美術誌/ウェブサイト『ART iT』で副編集長を務めた後、現在フリーランス。 http://www.shinichiuchida.com/
2012年
3月
18日
日
対話工房に新たな活動拠点&道具が加わりました。
「ペガサス号」という名前のキャンパー(キャンピングカー)で、10名の乗車数と4名の宿泊数の機能を持った移動・宿泊・活動拠点となる「ツールカー」として今後の活動を支え、可能性を広げていくことになるでしょう。特に被災地では宿泊施設が大きな被害を被り、現地で活動するための宿の確保が著しく困難な状況です。このツールカーが加わることで、より長期間、あるいは交通の便が悪いような地域への足がかりとなることでしょう。
また運用にあたっては、他地域で活動する団体と共に活動したり、遠方からの訪問者を案内したり、現地に足止めされているご家族を遠い保養地に運んであげたり、非常時の防災拠点の機能を持たせるなど…これから非常に活動の幅と地域が広がりそうです。
このキャンピングカーは、ドイツ大使館にいただいた協賛金で購入させていただきました。10月23日(日)に、東京・広尾の有栖川宮記念公園とドイツ大使館を会場に行われた日独交流150周年のハイライト・イベント「ドイツフェスティバル-絆をつなごう ドイツと日本」には、約2万人もの方々が来場されました。この時の売上げの一部がドイツ大使館に委ねられ、その一部を対話工房のツールカー構想に寄付していただきました。皆様に心より感謝すると共に、このキャンピングカーを女川の皆さん初め、女川を想う多くの方々の為に、有意義に役立てる事をお約束致します。
また「キャンパー」という響きを受けて、目を輝かせない人はいない、という事実に、対話工房メンバー間で常に語るマルチハビテーション(多拠点居住)という暮らし方への足がかりとなることで、「ふるさと」や「家族」の新しい価値観が女川で創造し、キャンパーに乗って全国に広がっていく予感がしています。
新しい「未来」を共有するために。
2012年
3月
09日
金
3月9日からドイツのハイデルベルグにあるクンストファライン美術館にて、Sharing as Caring: Presence for the Future 展として、対話工房の活動も紹介していただけることになりました。
展示のタイトルは「Touched face and future」(触れられる未来)です。女川で暮らす男の子の目線を通して、5年間をかけてアップデートしていくコンセプトで、動画、写真、地図という表現でハイデルベルグの方に「女川の今をどう共有していくか」を伝える試みです。
地図「Touchable face and world」では活動の舞台となっている宮城県女川町の位置と3.11の震源地と津波の被災エリアが描かれ、対話工房のメンバーとの個人的な関係と、それぞれの居住地である地方と地方がつながる模式図と、4隅には人と人の開かれた結びつきを生み出す「ツール」のミニチュア「焚き火」「キャンパー」「屋台」「ソフトクリーム」が取り囲んでいます。これらツールも地図と同様にアイテムが今後そのアイディアと共に集積させていく予定です。地図は海子揮一のコンセプトを元に、渡辺武海がデザインしました。
写真は京都市在住の写真家・草本利枝によって撮し取られた女川町の風景と、現地に住む6歳の「鈴之助」君の写真を中心に構成されています。彼を5年~10年撮影していく、という草本の意思表明が今回の企画のコンセプトの発端となっています。
ビデオは福岡市在住の泉山朗土の撮影・編集によるもので、対話工房設立直後の活動の方向性を示す内容のインタビュー映像となっています。同じものはこちらで視聴することができます。
今回の展示はドイツ在住のキュレーターである吉田美弥氏による企画ですが、5年という長期にわたる年月で津波や原発事故の被災地を取り上げ、それぞれの過去・現在・未来を少しでも共有し理解をする為に時間を掛けて対話を積み重ねるドイツの皆さんの姿勢を感じる企画となっています。
これを機会に女川町の細やかな機微を、この展示を見た方がそれぞれの感性で個々に感じ取り、国を超えてつながっていくことを期待しています。
(写真はすべて吉田美弥氏の提供によるもの)
2011年
11月
30日
水
文:海子揮一/写真:渡邉武海
2011年11月27日、女川町立病院(現・女川町地域医療センター)の仮設コミュニティースペース「おちゃっこクラブ」にて、京都在住の美術家・小山田徹によるワークショップが行われました。
今回設営するコミュニティカフェの建物は、町立病院の敷地内に町の予算でプレファブで建設し、11月始めには「コミュニティスペース」として完成されていました。そのスペースをギャラリー付きカフェに改装していくことが主な活動となりますが、成り立ち上「用意されたコミュニティスペース」をどのように住民が自分達の居場所として獲得していくか、設営後の運営も見据えて対話しながら実際に空間を作っていくのが活動の目的です。
小山田徹は1990年代から、各地で多様な視点によるフィールドワークを行い、人々と協働で共有空間を作る活動を続けてきました。特に人々が主体的に場に関わる事でその場の可能性が開かれ、感応するようにより創造的な行為が誘発されることに着目してきました。
今回の震災に対しては、原子力発電所の事故や法律や制度上生じる救済の穴などが象徴されるように、社会システムの大きな力が災害弱者を襲うことを「文明の津波」と呼び懸念し、人間が本来持つ創造性や連帯力の可能性を模索していました。特に長中期的に人々を孤立無援にする状況である事を予見して、手芸やDIYなど手仕事をしながら近隣のコミュニティの関係を深める「手遊び屋台」(9月17日女川第一小学校)を京都市立芸術大学の学生と開催しており、小山田個人としては4度目の訪問、対話工房としては最初のワークショップとなります。
ワークショップではまず始めに、小山田の共有空間の代表的な例である「バザールカフェ」の仕事が紹介されました。単なるノウハウの説明だけではなく、多種多様な人々が集まる事で生まれる可能性や、単なる作業と捉えず、仕事を細やかに分け、できるだけ多くの人がカフェ作りに関わる「ひだ」を増やし、都市の空地の様なスペースが積極的にかつ主体的に活動する人々が広く交流する場に変化していく様子を細やかなエピソードにわたって丁寧に説きました。
多くの参加者が関心を示したのは、一連の「屋台」の仕事のスライドでした。ローコストで、シンプルな作り、軽量で人力で移動でき、設営してオープンすれば劇的にその場を異空間へと変えるインパクトの強さ。現実問題として被災地には建築の厳しい制限がかかっており、地元に残って再興に奮起する人々の活動を強く制約しています。また強烈な津波の体験は重厚長大な建造物への懐疑を生むには十分であり、「移動できること」と「カスタマイズできること」という要素は今の日常から少し先の明日への確かな手がかりとなるツールかもしれません。
後半は自己紹介を兼ねた、アイディアストーミング。このカフェ空間と周辺を使って何ができるか、何が必要か、何がしたいかのアイディアを出し合いました。地元参加者とメンバーの個性がアイディアに反映されて話が拡がりました。普段でも大勢の前で個人のアイディアや意見を表明するのはためらいがちになるものですが、海やヨットの話や、食にまつわる話、イベントのアイディア、そしてこの土地の話になると場が活気づくのはこの街と暮らしを愛し、仲間と共に明日を向いて歩もうとしている証なのかも知れません。
2015年
1月
26日
月
今回は「アサヒ・アート・フェスティバル(AAF)2014」のネットワークを通して「うみやまさんぽ」4 冬至キャンプにご参加頂いた、大島広子さん(舞台空間/衣裳デザイナー)によるレポートをご紹介します。主催側とはまた異なる視点で綴られた参加体験として、ご紹介させて頂きます。対話工房としても、今後の活動の参考になるものとしてありがたく拝読しました。
*同レポートはAAF2014活動報告書用に執筆されたものを、大島さんおよびAAFのご厚意により転載させて頂きました。関係各位に御礼申し上げます。
2014年
3月
11日
火
あれから3年が経ちました。
失われたかけがえのない人々や風景へ哀悼の意を捧げると共に、困難に立ち向かい精一杯日々を送る方々へ心より敬意を表します。
あの夜に私たちが体験したのは、暮らしの足元を揺らされて襲い来る孤独と共に、つながり手を携える人との温かさと喜びでした。喜びも、悲しみも、笑いも、寂しさも、小さな焚き火の周りで、語らうテーブルの上で、森の中の朝日の中で、にぎやかな祭りの熱気の中で、ささやかでありながらも交歓し、積み重ねた時間がみなさんの今日の支えとなり、明日を形づくっていくことを願わずにおれません。
今夜も美しい星空が空に瞬いています。女川の皆さんも、東北へ想いを寄せる遠くの人々も、暮らしや境遇が異なっていても同じ空の下に生きています。それぞれ想いを抱きながらも、一人一人の枠や地域を越えて、自然や社会の中で生きる同じ人間として、私たちはどこかでつながっています。
東北で、そして世界中の各地でみなさんと共に歩んで参りたいと思います。これからも。
2014年3月11日
一般社団法人対話工房
2013年
3月
11日
月
文・写真:海子 揮一
今朝の宮城の空は真っ青に抜け、3日連続の強風が駆け巡っている。沿岸部では更に強い風が吹く朝を人々は忙しく行き交い、希望の旗は真横にたなびいていることだろう。
そして今日、震災の日から3年目を迎える。
2012年
6月
02日
土
文・写真:泉山朗土
今回女川に出発する前後、北九州市で震災瓦礫の広域処理による抗議活動がネット上で騒がれていた。デモ隊へ警察の強制介入やデモ参加者の妊婦が引きずられた、搬入日の空間線量が上昇した、搬出先である石巻市へ抗議電話が殺到しているなど。
2012年
4月
26日
木
文・写真:草本利枝
4月9日快晴。対話工房のメンバー、岡さんの息子である鈴之助くんは、この日女川第一小学校の一年生になる。仮設住宅で暮らし、秘密基地を作っている彼に双眼鏡をお祝いにプレゼントした。
2012年
3月
19日
月
「対話日記」では、対話工房に関わる人々それぞれの視点によることばを紹介していきます。今回は、東京からの参加メンバーのひとり、内田伸一が担当。彼が対話工房に参加するきっかけになった、2011年9月・初めての女川町訪問を記した体験記です。
2017年
6月
06日
火
女川町観光協会会長の鈴木敬幸氏が、2017年6月3日に永眠なさったとのお知らせを受けました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
鈴木さんは女川の町の未来を考え、意欲的に活動されるなかで、わたしたち対話工房の女川での活動にもご理解をいただき、さまざまなご協力・ご助言を賜りました。
鈴木さんは、対話工房メンバーのうち町にときどきおじゃまする立場の者にも、いつもあの優しく力強い眼差しで接してくれる方でした。そのご姿勢はより広く町内外で、立場や世代を超えた多くの人々に向けられていたのではと感じます。私たちの活動を町の人々に受け入れてもらえたのは、鈴木さんのご助力があったからこそでした。また、その独特の魅力的な語り口とユニークなご発想は、女川で始まった迎え火/送り火をはじめとして、対話工房の活動そのものにーまさに対話をとおしてー大きな力をくださいました。
ご逝去のお知らせには、大きな悲しみを感じています。
一緒に女川での日々をすごして来られたご家族や町の方々の悲しみはいかばかりかとも存じますが、安らかなご冥福を心よりお祈りします。また、鈴木さんのおかげで得られたところも大きい、女川のみなさんとのご縁を、今後とも大切にしていけたらと考える次第です。
鈴木さん、本当にありがとうございました。
対話工房一同
2017年
3月
19日
日
2016年
7月
16日
土
町の顔となる中心街が完成して、町内外の人びとが集う場所が生まれました。一方、今日も他の地区ではこれから工事が本格化して日々町の風景は変わり続けています。
これまで継続して開催してきた女川常夜灯は毎年会場の場所を復興の状況に合わせて変えてきました。今年は新しく駅前広場での開催を予定しています。これまで参加できなかった方々にも参加いただける機会となりそうです。
この5年目の開催をひとつの節目として、今年はプレ企画としてこれまでの女川常夜灯と町の風景の移ろいと歩みを記した記録展を開催します。
そして「迎え火プロジェクト」は8月13日に開催します。小さな火を囲みながらしばし歩みを止め、過去や現在、未来を想う時間になりますよう、ぜひお足運びください。
2016年
4月
19日
火
ライフラインが機能しなくなった非常時では、お湯を沸かしたり、暖をとることが必要になります。しかし身の回りにカマドや薪ストーブになる素材や加工のための道具が見つからない場合も想定されます。
そこで針金だけを使い、簡単に誰でも作れて、確実に着火して火持も良い簡易焚き火台「枝トーチ」の作り方をご紹介します。
2016年
2月
22日
月
女川の山や歴史を舞台に女川ネイチャーガイド協会さんと二人三脚で継続してきた対話工房のプロジェクト「うみやまさんぽ」。その3年間の取り組みを描いた短編映像が、来週の2月28日(日)13:07〜、せんだいメディアテーク7Fスタジオシアターで上映します。2/27〜28は他にも素晴らしい作品が多く上映されます。大きなスクリーンで壮大な風景と迫力ある音楽をぜひご高覧ください。
◎3がつ11にちをわすれないためにセンター「星空と路」上映室
http://recorder311.smt.jp/information/48942/
本映像は、震災で喪われたものを描くのではなく共に作ることを主題にしており、またミュージックビデオ並みに音楽を多用した構成になっています。震災後に沿岸部を舞台にしたドキュメンタリー映像としては珍しい部類に入るかもかもしれません。
20分あまりの短編ですが、震災後の様々な状況に振り回されながらも女川の山を愛し守り続ける人の想い、奇跡のような一瞬に集う人たちの想いが少しでも伝わることを願っています。
2015年
7月
21日
火
2015年
5月
17日
日
お知らせが遅くなりましたが、先日完成した「忘れないための被災地キャラバン」記録冊子(
2014年
7月
27日
日
2012年から継続して開催している「女川常夜灯」。今年も地元の皆さんと共に開催いたします。
3年目となりますが、日を改め8月16日に「送り火」として実施します。今回も小さな火を囲みながら、それぞれ思い思いの時間をゆっくり語り合う一夜。
地元の方も、町外の女川町を愛する方でも、ご家族やご友人と共にぜひお越し下さい。
2014年
7月
11日
金
今号も表は写真家・草本利枝による女川のウミネコを捉えた「女川カレンダー」、裏は今号から連載開始した山田創平さんによる「おながわ今昔考」を中心にお届けしています。
その他、下記の内容の記事となっています。
女川常夜灯「送り火」のお知らせ
ー今年は8月16日開催となった「女川常夜灯ー送り火」について
おちゃっこ探訪
ー第2回目となる今回はCAFE Rio'sさんをご紹介
女川来訪者録
ー「おながわ今昔考」の執筆者である山田創平氏のミニエッセイ
町内の方向けの朝刊に折込まれた7月11日は、震災から3年4ヶ月目の日、毎回ご協力頂いている梅丸新聞店さんの新店オープンの日と重なりました。地域情報の発信拠点と語らいの場として、益々のご繁盛とご発展をお祈りいたします。
2014年
5月
24日
土
女川ネイチャーガイド協会と対話工房のコラボ企画「うみやまさんぽ」第3弾のお知らせです。
昨年の春分・安野平編、冬至・石投山編に続き、遺跡と太陽の関わりを読み解きつつ、女川の魅力的な環境や暮らしを発見していく小さな冒険。ただし今回は季節も場所も正反対、出島の遺跡から対岸の石投山に沈む夏至の日没を焚き火を囲んで眺めます。島の時間、歴史の話を壮大な自然の中で語り明かす一夜。
また、出島はかつて優良な塩が名産でした。素朴な塩作りを試みながら、土地にまつわる記憶を島の方々と重ねて行きます。
2014年
5月
13日
火
隔月で女川の皆様にお届けする「女川カレンダー/対話新聞」、5-6月号が発行されました。 今回も有限会社梅丸新聞店さんをはじめ、ご協力頂いている皆さんに御礼申し上げます。
2014年
4月
11日
金
新年から隔月で女川の皆様にお届けしている「女川カレンダー/対話新聞」、3-4月号が発行されました。今回も有限会社梅丸新聞店さんをはじめ、ご協力頂いている皆さんに御礼申し上げます。
2014年
3月
31日
月
女川でも桜のつぼみも日々膨らんでいますが、2014年
運行するのは対話工房メンバー、おちゃっこクラブ(女川
おちゃっこクラブ(女川町復興連絡協議会会営)は住民の
今後は平日を中心に出動する予定です。伴走してサポート
2014年
1月
21日
火
新年のご挨拶申し上げます。今年もよろしくお願い致します。
このたび、有限会社梅丸新聞店さんのご協力で「女川カレンダー/対話新聞」を隔月で女川の皆様にお届けできることになりました。
カレンダーにはメンバーの草本利枝(写真家)による季節ごとに町をとらえた写真と女川町内の行事と潮汐グラフが掲載されています。その裏面は女川の話題をお伝えするミニ新聞です。現在女川町内で進んでいる取組みや対話の場の紹介記事、女川の町の魅力や隠れたエピソードを対話工房独自の視点で取り上げて行きます。女川を始めて訪れる方にも町外の視点から町の情報としてもお読み頂けるものにしていく予定です。
「女川カレンダー/対話新聞」は女川町内では、隔月末に河北新聞の朝刊で先行配布し、ほか女川町観光協会、町内の事業者様で閲覧もしくは入手可能です。
町外もしくは県外で購読希望される方、または配布のご協力頂ける方はメール等でご相談ください。
新年号(1−2月号)は1月8日に配布開始、次回の3−4月号は2月末に発刊予定です。
女川の方々を主な購読対称として編集していますが、今後女川に想いを寄せる方々の声や女川町外での取組みも紹介していく予定です。みなさまのご意見も活かした紙面を目指したく、どうかよろしくお願い致します。
2013年
3月
17日
日
直前の告知となってしまいましたが、来週22日に春の女川の山を歩くイベントを企画しています。参加される方を絶賛募集中です
「やまさんぽ:女川の山と歴史を歩く」
女川の歴史の源流となっている「安野平」にまつわる伝説、女川の方の山遊びの思い出、貴重な植物などを巡りながら、町内外の参加者の皆さんが女川の山や自然の魅力を知り、あれこれおしゃべりしながらの山歩きです。
主催 一般社団法人 対話工房/京都市立芸術大学
実施日 2013年3月22日(金)10時~14時 ※9時半に宿泊村エルファロに集合してください
申込定員 15名
参加料金 1000円(保険料+昼食代)※お弁当持参の方は500円
対象年齢 小学生~
今年は「海と山と火の物語」をテーマにして、女川の方々が引き継いできた歴史や言い伝えなどを集め共有し、今後変わりゆく風景の中で太古から現在、そして未来に向けての新しい物語を町内外の女川を愛する方々と作っていく企画を構想しています。
女川ネイチャーガイド協会さんのご協力のもと、京都精華大学の山田創平さんをゲスト講師として一緒に女川の歴史の由来がある山歩きのイベントです。山田さんは全国の水辺や海辺のまちの暮らしを歴史や風物から読み取り、研究をされている方です。
歴史を学ぶという勉強会というよりも、縄文時代の狩人の耳であるいたり、武士の大将の目で見渡したり、お父さんがこどもの時に遊んだ山遊びの隠れスポットを探したり、参加者同士で教え合って山道を辿ります。
春休みの子供たちのご参加お待ちしています!
→ぶじ開催しました。参加者のみなさま、ありがとうございました!
その様子など、追って報告させて頂きます。
2013年
1月
01日
火
新年あけましておめでとうございます。
この一年も共に泣き笑い喜びを分かちあい、潤いある穏やかな日々となることを、そして温かな日差しが皆さまに届きますよう心から祈念しています。
2013年 元日
2012年
10月
08日
月
対話工房の別府での展覧会「touchable face and future ― 触れられる未来 in 九州展 」が、10月6日から市内のplatform01で始まりました! ベップ・アート・マンス2012の参加企画であるこの展覧会、アートイベント「混浴温泉世界」のオープニングとも重なり、初日には100名以上の方々にご来場いただけたようで、嬉しいです。
2012年
10月
05日
金
2012年10月6日(土)〜12日(金)、対話工房が大分県別府市で展覧会を行います。
温泉地として知られる同市で毎年秋に開かれる市民文化祭「ベップ・アート・マンス」への参加企画。九州にも縁の深いメンバーふたりの展示を中心に、トークイベントの形で対話の場も設けます。
2012年
9月
20日
木
去る2012年8月13日に開催された、宮城県女川町での「迎え火」。対話工房もその準備からお手伝いさせてもらってきたこの催しについて、メンバーふたりがウェブサイト「ネットTAM」に寄稿させていただきました。
2012年
9月
20日
木
宮城県女川町での「迎え火」は、2012年8月13日に予定どおり開催することができました。対話工房では、現地の主催者の方々をお手伝いし、準備段階から当日、及びその後の振返りと来年に向けての話合いの場までご一緒させてもらいました。
2012年
7月
26日
木
女川町で地元の方々の手によりお盆の8月13日に「迎え火プロジェクト」が開催されます。
家々があった場所にひとつずつ小さな火を灯し、ご近所の方々との久しぶりの再会し、懐かしい顔に囲まれて夏の一夜を過ごすイベントです。津波で失われた町の風景に人々が集まる光景が蘇ります。当日はミニ縁日&盆踊り、100発の打ち上げ花火も予定されています。
対話工房も全面的にバックアップさせて頂いています。
2012年
6月
08日
金